まみむめ◎めも

日常のいろいろをメモ。

京都御苑内の神社 宗像神社 白雲神社 厳島神社

 
先日、日帰りで京都へ。
 
京都御苑でお花見。
 
 
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京都御所春季一般公開日の前日だったので、御所内の花見はまたの機会に。
御苑内には三つの神社がある。
花見を楽しみつつ、順番に参拝した。
 
 
宗像神社 (むなかたじんじゃ)
 
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平安京遷都の翌年の795年に桓武天皇の命により、藤原冬嗣が福岡県の宗像神社を勧進し創建された神社とのこと。
 
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宗像神社
本社は宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神(交通・運送の神)、または海の神(出産、生産、産業、文化の神)として信仰される。
この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、聖和天皇ご誕生の地である。
社殿によれば、平安遷都の翌年、延暦14年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されたと伝えられる。その後、歴代皇室の御尊信篤く、応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。
明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその邸内にあったが、邸宅が廃せられて後は社殿のみ残った。
境内には樹齢600年といわれる京都御苑内最長老の楠の巨木があり、桜の老木は御所の紫宸殿の左近の桜を拝領したものである。また「葉書」の語源となったとも言われる「多羅葉」の樹が社殿正面にある。境内社として花山稲荷社、京都観光神社、少将井社、繁栄稲荷社、金刀比羅宮がある。 ~立て看板より~
 
 
花山院邸跡
 
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境内にある赤い鳥居は花山稲荷神社。
 
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境内にある京都観光神社
 
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左から、琴平神社、繁栄稲荷腎社、少将井神社、宗像神社。
 
 
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宗像神社
 
 
 
白雲神社 (しらくもじんじゃ)
 
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西園寺邸跡
 
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西園寺邸跡
西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てられたといわれています。この地へは1769(明和6)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1878(明治11)年、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。休邸内は、西園寺公望が、私塾「立命館」を創設した地でもあります。  ~立て看板より~
 
 
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手水に一輪の椿。とても風雅。
 
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社務所が開いていたので、御朱印をお願いした。
 
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音楽の神様らしく琵琶を模った朱印。
 
 
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スミレが咲いている。
 
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厳島神社
祭神 市杵島姫命 湍津姫命 田心姫命 祇園女御
当社は往昔平相国清盛公 安芸の国佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の国(神戸市兵庫区永沢町)に一社を設けてこの狼を勧請し給い鎮祭されたのであり後故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました 後世年を経てこの九条家邸内拾翠池の嶋中に移転遷座されたのであります ~立て看板より抜粋~
 
唐破風鳥居 (重要美術品)
 
 
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九条邸跡
九条家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后節子もその一人です。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京都市内では幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九条尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九条邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりです。 ~立て看板より~
 
 
 
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桜が終わるあと青もみじの季節。